こどもの本作歌 渡辺茂男の仕事
Shigeo Watanabe

プロフィール

渡辺茂男: こどもの本の作家、翻訳家

(1928年生、2006年没)

 

渡辺茂男は、戦後1950年代後半から2000年初頭にかけ、欧米の優れた児童文学や絵本の翻訳と紹介、平行して童話や絵本の創作を精力的におこなった。翻訳と創作を合計すると、生涯に300冊もの子どもの本を出版した。代表的な翻訳作品には、『エルマーのぼうけん』、『エルマーとりゅう』、『エルマーと16ぴきのりゅう』(ルース・スタイン・ガネット作、福音館書店)、『かもさんおとおり』(ロバート・マックロスキー作と画、福音館書店)、『どろんこハリー』(ジーン・ジオン作、マーガレット・ブロイ・グレアム画、福音館書店)、『山の上の火』(クーランダー、レスロー文、岩波書店)などがある。創作作品には、『しょうぼうじどうしゃじぷた』(山本忠敬画、福音館書店)、『もりのへなそうる』(山脇百合子画、福音館書店)、自伝的作品である『寺町三丁目十一番地』(福音館書店、品切れ重版中止)などがある。絵本の紹介書には、『心に緑の種をまく』(新潮文庫)などがある。子どもの本による国際交流にも貢献し、JBBY日本国際児童図書評議会(IBBY国際児童図書評議会の日本支部)にも尽力した。

 

西暦年月 年齢 出来事と主な作品
1928年 0 3月20日、静岡県静岡市に生まれる。12人兄弟姉妹の上から四番目。
1932年 4 生母つぎ、死去。
1940年 12 静岡大火で生家の写真館が焼ける。
1940年   県立静岡商業学校に進学。
1943年 15 写真館再建。
1945年 17 静岡空襲で写真館が再び焼ける。
1949年 21 米国占領軍CIE(民間情報教育局)図書館長が開く英会話クラスで英語を学ぶ。
1951年 23 1月、CIE図書館のスタッフになる。
1951年春   慶応義塾大学に開設された日本図書館学校にCIE図書館の推薦により入学。石井桃子らと知り合う。
1953年 25 慶応義塾大学文学部図書館学科卒業、助手として同大勤務。
1954年 26 フルブライト奨学金を得て渡米。オハイオ州ウェスタンリザーブ大学大学院に学ぶ。
1955年 27 ニューヨーク公共図書館児童部に勤務。
1957年 29 アメリカ留学より帰国、子どもの本の勉強会「いすみ会」に参加、石井桃子、松居直、瀬田貞二、いぬいとみこ、鈴木晋一らと知り合う。
  慶応義塾大学文学部図書館学科講師(1969年教授)。
1958年 30 永原一江と結婚。

1960年

4月

32 『子どもと文学』(共著.中央公論社)出版。
1962年 34 長男鉄太誕生。
1963年 35 創作絵本『しょうぼうじどうしゃじぷた』を発表。
1963年   『エルマーのぼうけん』(福音館書店)を翻訳。
1964年 36 次男光哉誕生。
  『どろんこハリー』(福音館書店)を翻訳。
1965年 37 多摩市(当時は南多摩郡多摩町)に転居。父、祐蔵死去。
1969年 41 『寺町三丁目十一番地』で第11回児童福祉文化賞(厚生大臣賞)、第17回サンケイ児童出版文化賞。

1971から

72年

43 米国、英国に家族連れで滞在。米国ウエスタンミシガン大学客員教授。シカゴ大学、イリノイ大学、ロンドン大学、ウエールズ大学などで研究および講義。
1974年 46 JBBY日本国際児童図書評議会を松居直氏らと設立(下中邦彦会長)。
1975年 47 慶応義塾大学を辞職し著作活動に専念する。
  三男光太誕生。
1977年 49 BIB国際絵本原画展国際選考委員。
1978年 50 IBBY国際児童図書評議会副会長。
1980年 52 第15回モービル児童文化賞受賞。
1986年 58 IBBY国際児童図書評議会世界大会を青山こどもの城で開催。大会実行委員長を務める。
1990年夏 62 夫婦で欧米旅行。ロバート・マクロスキーの故郷メイン州、カナダなど再訪。
1991年 63 妻一江死去。
1994年 66 『月夜のじどうしゃ』で講談社出版文化賞。
1994年   初孫、鼓子(ここ)誕生。
1996年 68 渡辺邦子と再婚。

2004年

10月

76 長男鉄太が移住したオーストラリアを訪問(最後の海外旅行)。

2006年

11月18日

78 多摩市内の病院で逝去。

 

渡辺茂男の生い立ち

茂男は1928年(昭和三年)、静岡市に写真館「菊池写場」を経営する父祐蔵と母つぎの間に生まれた。母つぎは茂男が四歳の時に亡くなり、継母せきに育てられる。茂男は三男(姉がいるので4番目の子ども)だが、後には腹違いの弟妹や養子も含めると兄弟姉妹は12名まで増える(詳しくは『寺町三丁目十一番地』を参照)。城内東小学校から静岡商業学校を経て、久我山工専で電波工学を勉強し1949年に卒業。いったん静岡に帰り、焼津の土産物屋で働いたり、その後は進駐軍文化情報局(CIE)の静岡図書館で働いたりした。これがきっかけで、1951年慶応義塾大学にできた日本図書館学校(現在の文学部図書館情報学科)の一期生となる。在学中は、大田区大森の増井四郎宅に下宿、近所に住む児童文学家村岡花子のもとで「道雄文庫」の手伝いをした(詳しくは、村岡恵理著『アンのゆりかご、村岡花子の生涯』、マガジンハウス、2008年を参照)。

 

1953年慶応義塾を卒業、1954年フルブライト奨学金でアメリカ留学。キャンザス大学を経てオハイオ州のケースウェスタンリザーブ大学大学院で図書館学修士号を得る。1955年ニューヨーク州立公共図書館に勤務、アメリカの児童書に親しむ。ニューヨーク時代には、ハーレム分館に勤務したり、黒人前衛音楽家オラ・トンジ氏の知己を得たり、八島太郎と知り合ったり、イエラ・レップマンの講演を聴いたり、ぽんこつ車でフロリダまでドライブ旅行したりした。フルブライト奨学金のお金を節約してアメリカの古着を買い、静岡の兄弟姉妹に送ったこともあったらしい。留学時代によほどのことがあってか、後年茂男はハンバーガーを食べなかった。

 

1957年帰国、慶応義塾大学図書館学科の専任講師に着任、児童文献などの講座を担当。1958年永原一江と結婚、保谷市下保谷に新居を構える。保谷で飼い始めた雑種犬の名前は「プー」だった。(プーの犬小屋は、半世紀たった今も多摩市桜ヶ丘の家にある。)

 

渡辺茂男の執筆活動

渡辺茂男が最初に出版した本は、1958年にあかね書房から出した『アメリカ童話集』である。この本は、石井桃子の推薦で翻訳出版された。『アメリカ童話集』にはアメリカ開拓時代の物語、インディアンの昔話、黒人の民話などが収められている。茂男はこの頃から「いすみ会」という児童文学研究会に参加し、瀬田貞二、石井桃子、いぬいとみこ、松居直、鈴木晋一らと、子どもの本の研究を行った。この会の成果は1960年中央公論社から出版された『子どもと文学』にまとめられた。

 

『エルマーのぼうけん』、『しょうぼうじどうしゃ じぷた』の頃

茂男の創作の処女作は、1958年雑誌「母の友」に掲載された「へそまんじゅう」と言って良い。後に『へそもち』(福音館書店、1966年、品切れ重版中止)という絵本になり、赤羽末吉が絵を描いた。これを皮切りに次々と創作、翻訳作品を出していく。1960年『こまどりさんのクリスマス』(丸木俊画、福音館書店)、『三人のおまわりさん』(学習研究社)、1961年『とらっく、とらっく、とらっく』(福音館書店)などを出した。

 

1962年長男鉄太(筆者)が生まれ、翌1963年『しょうぼうじどうしゃ じぷた』(山本忠敬画、福音館書店)を上梓。長男の名前を使った『てったくんのじどうしゃ』を「母の友」に掲載した。同年『エルマーのぼうけん』(福音館書店)や『山の上の火』(岩波書店)を翻訳。『エルマーのぼうけん』、『エルマーとりゅう』、『エルマーと16ぴきのりゅう』の三部作は、合計すると翻訳出版されてからの45年間(2009年現在)で500万冊以上も売れたロングセラーである。

 

1964年次男光哉誕生。1965年保谷から多摩市桜ヶ丘に引っ越す。『かもさんおとおり』(福音館書店)を1965年に出版。1966年自分の父親をモデルにした自伝的物語、「寺町三丁目十一番地」を「母の友」に連載し始める。同年『くるまはいくつ』(堀内誠一画、福音館書店)、『三人むすこ』(瀬川康夫画、岩波書店)といった絵本を創作。翻訳では『ふしぎな5ひゃくのぼうし』(講談社、現在は偕成社刊)を始めとしたDr.スース絵本もこのころから多数翻訳。

 

1967年『うみべのハリー』(福音館書店)を翻訳、シャープ作『小さい勇士の物語』(岩波書店)を出版。この後、シャープ作品「ミスビアンカシリーズ」7冊の翻訳は、1988年までこつこつ続けた。出版が長期に渡ったので、あるファンの男性に「続編が待ちきれないから自分で訳します」と催促の手紙をもらって慌てたこともあった。この人はどこかの住職で、茂男は、「お寺さんに先を越されたんじゃあ、作家の面目が立たない」と苦笑していた。後に1983年頃に渡辺家の飼い猫になった白猫は「ビアンカ」と命名された。茂男、1967年頃から健康のためにゴルフを始める。

 

1968年『ちからたろう』(渡辺学画、福音館書店)、『たいへんたいへん』(長新太画、福音館書店、現在は絶版)など上梓。1969年『てったくんのじどうしゃ』(堀内誠一画、福音館書店、品切れ重版中止)、『パトカー、ぱとくん』(山本忠敬画、福音館書店)など、乗り物絵本も出し続けた。同年、『寺町三丁目十一番地』がサンケイ児童出版文化賞と厚生大臣賞を受賞。1969年慶応義塾では教授に昇任。『けんこうだいいち』(リーフ作、学習研究社、フェリシモから2003年復刊)、Dr.スースの記念的な処女作『マルベリーどおりのふしぎなできごと』(Dr.スース作、日本パブリッシング、現在絶版)などを訳すが、英語のユーモアを日本語に訳すのに苦心した。

 

1970年から1971年にかけて多摩の家を改築、平屋建てを書斎と書庫三部屋、事務用スタジオ付きの2階建てプラス屋根裏の洋風建築に建て直す。居間は12畳ほどで、絵本の原画をいっぱいに広げても打ち合わせができるスペースを取った。慶応義塾の教授職を近い将来辞任し、執筆に専念する決意がこの改築に現れていた。

 

一年間のアメリカ、イギリス滞在

1971年8月から1972年8月にかけて、茂男は慶応義塾から研究休暇をもらい、家族連れでアメリカとイギリスに半年ずつ滞在した。前年に飛び始めたばかりの日航ジャンボでハワイに渡り、そこからアメリカ西海岸に渡り、シアトル、サンフランシスコとロサンジェルスを訪問。シアトルでは、慶応義塾での恩師シーロフ女史、サンフランシスコでも恩師ギトラー博士に再会。ロサンジェルスでは、マリリンモンローのお墓を訪問。

 

次に訪れたコロラドのプードル渓谷では、キャンザス大学時代のホストファミリーで、実業家のバーネット家別荘に滞在。優雅な夏休みと思ったら、パティオ作りのコンクリート工事を手伝わされた。コロラドで茂男は、小さな黄色いフォードピントという小型車を買い、やや自虐的にこれを「イエローピーナッツ号」と命名。この車でロッキー山脈を家族連れでドライブ旅行。その後、摂氏40度の気温の中、冷房なしのイエローピーナッツ号で中西部の穀倉地帯を走り抜け、全員ふらふらでバーネット家の本宅があるキャンザス州ローレンス市に到着。バーネット家はプール付き豪邸で、その他に自家用飛行機、滑走路付きの農場、1972型キャデラック二台などを所持。キャンザス大学には、バーネット氏の寄付した建物もあった。

 

秋近くなると、茂男は、単身でイエローピーナッツ号を駆って北西部のミシガン州カラマズー市へインターステートハイウェーを東に走った。家族は、自動車旅行はもう懲りたので、飛行機とグレイハウンドバスを乗り継ぎカラマズー入り。

 

カラマズーで借りた家は落ち着いた郊外にあり、大きな木のある裏庭と広々とした地下室があった。茂男は、ウエスタン・ミシガン大学で一学期間の訪問教授を務めた。茂男は、ウエスタン・ミシガン大学のライブラリースクールで研究活動、講演などと忙しく暮らし、イリノイ大学、シカゴ大学等でも講演。古巣のニューヨークへも飛ぶ。カラマズーでは、物理学の曽我道敏教授にお世話になり、「カラマズー会」という日本人留学生、訪問教授の会にも参加した。

 

1972年1月厳冬のカラマズーを離れ、ニューヨークへ。JFK空港から英国航空でロンドンへ渡る。ロンドンでは、半年の短期滞在だったり、子持ち家族だったりしたので、茂男は借家を借りるのに奔走するが、ロンドン南郊外イーリングコモン駅の近くに、ようやく古いフラットの一階を借りることができた。ここを拠点に、茂男はロンドン大学、ウェールズ大学などで講演や研究、フランス、ニースでのIBBY国際児童図書評議会にも出席。ロンドンのこの家には、石井桃子氏(詳しくは、石井桃子著『児童文学の旅』岩波書店、1981年を参照)、『みつやくんのマークエックス』(あかね書房、1973年、2007年に実業之日本社/新栄堂書店から復刊)の絵を描くことになる画家エム・ナマエ氏等が訪問滞在した。

 

ロンドン滞在中は、渡辺家はパリに遊びに行ったり、英国南部コーンウォールを自動車旅行したりした。最後にスコットランドを訪れる予定は、6月に鉄太が交通事故に遭って断念。7月中旬にロンドンに別れを告げ、一ヶ月間の北欧旅行。ノルウェー、スウェーデン、デンマークと旅し、モスクワ経由日航機で8月帰国した。

 

アメリカ、イギリス渡航の前後、そして最中にも茂男の著書は出版された。1971年『やまんばがやってきた』(なかのひろたか画、学習研究社、現在は絶版)、『もりのへなそうる』(山脇百合子画、福音館書店)、レンスキー作『ちいさいじどうしゃ』(福音館書店)、そして1972年には『もくたんじどうしゃもくべえ』(岡部冬彦画、岩波書店、現在は絶版)、『しゅっぱつしんこう』(堀内誠一画、あかね書房、2009年復刊)など。

 

慶応義塾大学辞職

1973年は、『だんぷのがらっぱち』(山本忠敬画、福音館書店)、『地底のミスビアンカ』(シャープ作、岩波書店)、1974年は『青銅の弓』(スピアーズ作、岩波書店)などを上梓。1974年7月シンガポールの国際学校図書館会議、10月リオデジャネイロIBBY国際児童図書評議会世界大会に出席。同年JBBY日本国際児童図書評議会を下中邦彦(会長)、松居直らと結成、子どもの本による国際交流に邁進する。

 

1975年、三男光太誕生。光太は、次男光哉以来11年ぶりの子ども。同年慶応義塾大学を辞職。フリーな立場の作家として活動する決意を固める。イラン政府招待により、「国際理解に奉仕する児童文学」会議に参加。『銀色のクリスマスツリー』(ハッチンス作、偕成社)を出版。

 

くまたくん、くまくん 絵本シリーズ

1975年、茂男は、光太のアトピー性皮膚炎がひどかったこともあり、夏期の避暑先と仕事場を兼ねて伊豆天城山に別荘を建てた。茂男の執筆は、半分は聖蹟桜ヶ丘の本宅、半分はこの天城山で行われるようになった。伊豆では仕事の合間には、天城や伊豆高原のゴルフ場で息抜きをした。

 

1976年アテネのIBBY国際児童図書評議会世界大会に出席。国際理事に選出される。ユーゴスラビア、チェコスロバキア訪問。『沖釣り漁師、バート・ダウじいさん』(マックロスキー作と画、ほるぷ出版、現在童話館)を翻訳。海外での活動に積極的に参加、チェコスロバキア、ブラティスラバBIB国際絵本原画展国際選考委員も務める。

 

茂男は、このころから光太をモデルにしたクマとそのクマの家族の物語の絵本を連続して書き始めた。福音館書店「クマくん」シリーズと、あかね書房「くまたくんシリーズ」で、絵は大友康夫氏が担当した。「クマくん」シリーズの筆頭は、代表作となった『どうすればいいのかな』(1977年)、ついで『いただきます』(1978)、『こんにちは』(1979年)、『よういどん』(1980年)など合計10冊が1986年までに出された。一方、あかね書房の「くまたくん」シリーズは、1979年の『ぼくパトカーにのったんだ』を皮切りに、1989年の『ぼくじてんしゃにのったんだ』まで、十年間に15冊を出した。「くまくん」と「くまたくん」シリーズを合わせると合計25冊に上る。茂男のこのシリーズは、幼稚園や保育園でファンを獲得し、現在でも大多数が出版されている。また、『どうすればいいのかな』など数冊は欧米やアジア諸国でも翻訳され、タイではブックスタートの指定図書に含まれている。茂男は、「くまくん」シリーズを書くためには、家庭で光太と自分のやりとりを細かく記録し(詳しくは、『絵本の与え方』渡辺茂男著、日本エディタースクール、1978年を参照)、一方「くまたくん」シリーズの執筆のためには、大友氏や光太と、取材旅行のために、飛行機、青函連絡船、新幹線、蒸気機関車などを乗り継いで北海道、大島、大井川寸又峡、東北、伊豆半島などを旅行した。

 

この時期の代表的な翻訳作品には『センダックの世界』(レインズ著、岩波書店、1982)、『ハリーのセーター』(ジオン作、福音館書店、1983年)、『くるみわり人形』(ホフマン作、ホルプ出版、1985年)などが挙げられる。

 

茂男とIBBY世界児童図書評議会東京大会

茂男は1974年にJBBY日本国際児童図書評議会を有志と立ち上げたが、1977年にはその母体であるIBBY 国際児童図書評議会副会長に選出された。これまでの子どもの本に対する貢献が認められ、1980年には第十五回モービル児童文化賞を受賞。そのころから1986年に至る数年間は、茂男にとって人生最大の山場と言ってよい事業に向けられた。それは1986年にアジアで初めて行われたIBBY世界児童図書評議会の東京大会の実行委員長の役割だった。この大会には、海外からはミヒャエル・エンデ、フィリッパ・ピアスを始め328名、国内から498名の参加者を得て、大会は大成功だった。(詳しくは、『児童サービスの歴史』汐撫子、創元社、2007年を参照)。また、同時期よりACCUユネスコアジア文化センターの理事としても活動し、1986年1月には、ACCUタイ、ネパール訪問使節団の団長として両国を表敬訪問している。

 

創作では、1983年の雑誌「母の友」連載を元に、『イノシシ親子のイタリア旅行』(理論社、1987年)を上梓し、続いて『ふたごのでんしゃ』(堀内誠一画、あかね書房)も出している。1988年三月、茂男は還暦60才を迎えた。この年は、『パインクリークの開拓地』(ウイスコンシン物語シリーズ、ペロウスキー作、ほるぷ出版、福本友美子と共訳、1988年、現在は絶版)、『元気なモファットきょうだい』(エスティス作、岩波書店、1988年)などを翻訳した。ウイスコンシン物語の著者アン・ペロウスキーは、来日時には天城の仕事場にも滞在し、茂男と一緒に翻訳チェックなどをしている。8月IBBY世界大会のためにスペインを訪問。1989年『おばけレタス』(かわはらみき画、トモ企画、現在は絶版)、『がんばれコーサク』(永原達也画、福音館書店、品切れ重版中止)などの創作を出版し、上記ウイスコンシン物語の続編も出している。

 

1990年『オズの魔法使い』(バウム作、デンスロウ画、福音館書店)を上梓。5月、妻一江と2週間ほどカナダを旅し、特にバンクーバーが気に入り、将来ここへ引退する気になる。続いて8月中旬から9月中旬までは夫婦でアメリカ旅行をする。マックロスキー氏の故郷メイン州を再訪後、ウェストバージニア州ウイリアムズバークでのIBBY世界大会に出席。

 

妻一江の死

1991年、長男鉄太(筆者。当時、明海大学外国語学部講師)と共訳『くまと仙人』(ヨーマン作、ブレイク画、のら書店)を刊行。『ジェーンはまんなかさん』をはじめ、「モファットきょうだい」シリーズ(岩波書店、1991年)上梓。5月、妻一江が急病(脳腫瘍)で倒れ、治療の甲斐なく9月25日死去。享年56才。

 

茂男の晩年

一江亡き後、しばし茂男の仕事のペースは滞った。一江の没後、最初に出した創作作品は『月夜のじどうしゃ』(井上洋介画、講談社、1993年、現在は絶版)である。これは、茂男自身の老いと孤独が象徴された作品と言える。1994年に初孫の鼓子(ここ)が生まれる頃には茂男は元気を取り戻す。明るい調子の『まんいんでんしゃ』(加藤チャコ画、福音館書店)、『ぶつかるぶつかる』(加藤チャコ画、福音館書店)などは、孫の母親であり、義理の娘の加藤チャコとの共作である。翌年次男光哉にも孫娘南々帆(ななほ)が生まれる。孫をモデルにした作品には、『あんよはじょうず』(長新太画、福音館書店、1998年)もある。『キウイじいさん』(長新太画、クレヨンハウス、2005年、初出は、クレヨンハウス「音楽広場」1994年、)は、長新太(2005年没)との最後の共作となったが、茂男が老後を元気よく生きることを決意したことが明白な、軽快な作品である。

 

茂男晩年の翻訳は古典絵本の復刊に集中し、『ありがたいこってす』(マーゴット再話、童話館、1994年)、『あかいくるまのついたはこ』(ピーターシャム作、童話館、1995年)『クリスマスのまえのばん』(ムーア作、デンスロー画、福音館書店、1996年)など、欧米絵本の古典名作を訳した。同時に、『サマータイムソング』(ハース画、福音館書店、1998年)のような比較的新しい作品も手がけている。

 

1996年渡辺邦子と再婚。良き伴侶に恵まれた茂男は、2003年『ふしぎなおはなし』(高良真木画、古今社)を出版(創作では最終作)。また、「おさるのジョージ」シリーズ(レイ夫妻原作、岩波書店、1999年以降に継続的に出版)は、慶応時代での教え子でもある翻訳家の福本友美子と訳を分担した。『ジェフィのパーティ』(ジオン作、グレアム画、新風社、2004年)なども訳している。

 

2004年10月、長男鉄太の住むオーストラリア、メルボルンを訪問、鉄太のモナシュ大学での博士号授与式に参列した。これが生涯最後の海外旅行となった。2005年9月、『さとうネズミのケーキ』(ジオン作、グレアム画、アリス館、2006年)を訳し終えた頃、脳溢血の発作を起こして多摩市内の病院に入院。2006年11月18日、14ヶ月に渡る闘病生活を経て永眠。享年78才。

 

翌2007年2月23日東京一橋の如水会館で「渡辺茂男、お別れの会」(発起人は松居直、猪熊葉子、松岡享子各氏)が開かれ、300名近い関係者や知人が集まり、茂男を偲んだ。「お別れの会」の前日、『心に緑の種をまく』の新潮文庫版が発売され、参加者に配られた。巻末の「付記」に、長男鉄太が茂男の思い出を書いている。

 

(敬称略。2009年11月、渡辺鉄太©)